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「地震と展覧会」

今年は元旦に能登半島地震、東日本大震災からは13年。地震列島に住んでいる私たちには避けることのできない大災害です。今回は「地震に遭遇した展覧会」という昔々の体験を思い出しながら綴ってみます。

今も美術品専用車(温湿度管理、サスペンションの効いたトラック/以後 美専車)には主催者が作品とともに同乗して移動することがあります。モネやセザンヌの作品を乗せた美専車に乗って、青函連絡船フェリー乗り場のある函館に向かっていた夜の10時過ぎ。場所は北海道南西部の長万部(おしゃまんべ)。道路と平行に走るJR函館線の架線が揺れて火花がパチパチと出ている。トラックが揺れている。ラジオをつけると地震が起きたことを伝えている。

1993年7月12日の夜から翌朝までの北海道での忘れがたい体験を記します。

前日の7月11日に私が初めて手掛けた海外展~フランスのルーアン美術館所蔵による「フランス絵画-黄金の19世紀展」の巡回の3会場目を終え、翌日夕方、フランス絵画100点を乗せた3台の美専車は、札幌芸術の森美術館を後にし、次の開催会場、静岡県立美術館へ向け出発。そして同日の夜10時27分「北海道南西沖地震」に遭遇したのです。車載ラジオからは、大地震を伝える緊急ニュース。北海道南西沖を震源とするマグニチュード7.8、推定震度6のこれまでに日本海で発生した地震としては最大級の地震が起こったのです。

幸いにして私たちは長万部という街にいたため周りに人家がありました。対向車線の車の人たちからは、先の橋が陥落したようだとか、道路が陥没して通れなくなっているなどの情報が。パトカーがやってきて避難するように、がなりたてます。この展覧会担当者としてドライバーたちに指示をしなければなりません。3台の福岡から来た美専車と福岡から来たドライバーたちと緊急避難しなければなりません。青函連絡船の時間に間に合わせるためにう回路はないものか・・

当時はナビシステムなどありません。北海道の地理に不案内な私たちです。陥没した道路を走り、車が横転などしたらモネやセザンヌなどの大事な作品が傷つくかもしれません。道路上に重要美術品を乗せた3台の車を停車させたまま、車には交代で一人ずつ残り、近くの小学校の体育館に避難することにしました。北海道の7月の日の出は4時5分だと調べ、夜が明けるのを待つことにしたのです。次の静岡のオープニングには間に合わない覚悟をしました。

札幌にはこの企画展を一緒に創った福岡市美術館の担当者や終了挨拶のために来ていた上司がいます。まず、彼らに連絡をしなければなりません。今では当たり前の携帯電話は、この当時は普及していませんでしたが、なんと!輸送会社が先駆的に車に携帯電話(といっても備え付けのA4サイズくらいものだった。ショルダーフォンと言っていたように思います)を搭載していたのです。地震発生から1時間くらいは札幌との通信はできました。無事を知らせることができたのです。しかし、その後は回線がパンク状態になったのでしょう。札幌とはつながらなくなったのです。

私は交代のドライバーたちと体育館で夜明けを待ちます。体育館が何度も地鳴りとともに揺れます。余震です。NHKラジオから流れてくる「奥尻島が燃えています」というアナウンサーの言葉は今も記憶にあります。そして津波の情報も流れてきます。私たちは奥尻島から直線距離で80キロくらいの海辺の街にいたものの津波の被害にあうことはなかったのですが、奥尻島には短時間で津波が襲来し大きな被害が出たことを後で知ったのです。

もちろん一睡もしないで夜明けを待ちました。夜が明けました。夏の北海道の朝はひんやりしていたように記憶しています。お天気は良かったことも記憶しています。美専車を出発させました。そろりそろり。落ちた橋はありませんでしたが、陥没した道路には土が盛られ安全に通れるようになっていました。朝の8時過ぎだったでしょうか。函館港に到着しました。液状化現象が起きていました。青函連絡船のダイヤは当然、乱れていましたが、輸送会社の手配よろしく、スムーズに3台は大きな船に飲み込まれ、北海道を離れることができたのです。実は初めての津軽海峡は船のデッキでお酒でも飲みながら景色と時間を楽しもうと企んでいたのです。しかし、一睡もしていなかったのと安堵で、私の津軽海峡は夢の中でした。

青森県に入った後、1泊2日。ドライバーは交代で美専車は夜通し走り続けました(今は、安全のために深夜走行はないようです)。そして7月14日静岡に到着。16日の開催に間に合ったのでした。今も振り返ると運がよかった。長万部という街にいたこと。携帯電話があったこと。青函連絡船にすぐに乗船できたこと。何よりも作品も私たちも無事であったこと。後日談ながら、当時の担当役員が私の上司にこう言ったそうです~「作品も人命もダメになったとして●●(私のこと)の弔慰金は払えるだろうが、モネやセザンヌなど100点の作品の賠償はできなかったのじゃないか」と・・・苦笑いでした。

この体験以降、今でいう危機管理には大いに気を遣うようになったものです。災害だけではなくリスクがどこに潜んでいるか。常に把握しておくことの大事さとその対応です。

この体験から8年後の2001年3月24日、ひろしま美術館で開催していた企画展「古伊万里のすべて展」は同日15時27分マグニチュード6.7、最大震度6弱の「芸予地震」に遭遇。出陳作品が破損するという惨事に見舞われたのでした。この話は、またいずれ。

奥尻島地震について  北海道南西沖地震の概要 | 北海道奥尻町
ルーアン美術館ホームページ Musée des Beaux-Arts
   

筆者:のぎめてんもく

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