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「展覧会 ウラ話し・オモテ話し」第1回 美術展はこうしてできあがる③

「リヒテンシュタイン侯爵家の至宝展」
(2019~21年東京、宇都宮、大分、仙台、広島、大阪に巡回)

学生時代、美術展といえばデートの場としか考えていなかったが、新聞社や放送局の事業部門(イベント担当セクション)で働き、展覧会を40本近く企画した経験から、展覧会のウラとオモテのお話を綴っています。(①はこちら)(②はこちら

文化庁への大変な手続き

「世の中の大事なことは大抵、面倒くさいんだよ」~ジブリの宮崎駿さんのこの言葉がしみた時がありました。展覧会準備にあって図録(カタログ)製作は「面倒くさい」というと語弊がありますが大変な仕事です。その図録製作とともに、本展準備で大変だった(で面倒くさい)のが「第3者による作品の差押排除」のための文化庁への手続きでした。

「海外の美術品等の我が国における公開の促進に関する法律(海外美術品等公開促進法)」に基づいてやらなければならない仕事です。これはリヒテンシュタイン側からの要請(契約条項のひとつ)でもあるのです。

何のことかさっぱり分かりませんよね?

かつて欧州では美術品略奪の歴史がありました。ナポレオンが、ヒトラーが・・戦争に乗じて美術品を略奪しました。元々の所蔵者が請求し返還された例も数多く、映画のテーマにもなっています(『黄金のアデーレ 名画の帰還』はナチスドイツが略奪したクリムトの作品を巡る実話の映画化)。

今回、日本で展示される作品はリヒテンシュタイン侯爵家が言わば、奪ったものではないこと(すなわち、第三者のモノではない)、また仮に第三者が返還を申し出ても拒絶するという日本政府のお墨付き-公的な証明-が必要ということです。日本で展示が決まった絵画、磁器126件のすべての来歴(いつ、リヒテンシュタイン侯爵家が入手したか)を作品画像とともに申請し、文化庁が確認し、官報に公示されるのです。文化庁の確認書類をリヒテンシュタイン側に送らなければ作品は日本にやってこないのです。

ロシアとのやりとり~国家保障を巡って

話しは「リヒテンシュタイン展」からそれるのですが、この法律がまだなかった時に、大変、苦悩したことがあります。2008年に全国4会場を巡回した「シャガール展」です。私はメディアの事業部で本展を指揮していました。開催まで4か月と迫った2008年1月、本展の主要作品を所蔵するトレチャコフ美術館(ロシア・モスクワ)が急に「ロシア政府は、借用国の政府に対して、貸し出す美術品の安全を保障する公文書を求める旨」を要求してきました。日本政府による国家保障を求めてきたのです。急なロシア政府の要求の背景は当時の英国とロシアの間の政治的な対立が絡んでいました。同じ頃、ロンドンで開催が計画されていた「ロシア4大美術館展」を巡り、ロシア政府が英国政府に対して嫌がらせとも思われる国家保障を急に要求したのです。英国は、素早く法的整備を進め難局を乗り越えたのです。日本は、とばっちり食らった感じです。日本には国家保障の制度がありませんでした。

1月から展覧会チームは、まず外務省に救いを求めるべく対応をスタートさせます。同省は真摯に文化庁、法務省など関係省庁と協議を尽くしてくれるのですが、なかなかいい方法が見つかりません。今から法律を作るというのは問題外、無理な話です。「日露の文化交流促進」という漠然とした概念で進めるしかないのか?在モスクワ日本大使館の文化担当公使がロシア政府の担当のシュビトコイ文化映画大臣(今も名前は忘れません)に直接交渉をしたり、私が東京のロシア大使館へ出向いたり、果ては地元選出の代議士に陳情し、更に強く外務省に対して働きかけを依頼したりと、考えうる手を尽くすのです。第1会場の静岡展開幕は刻一刻と近づいてきます。

社内では、開催できなかった場合の経済的損失についての報告をすることになります。展覧会チームは当時、モスクワとはFAXでやり取りを進めていました。時差の関係で深夜にFAXを入れておくと翌朝、回答が来るという日を繰り返しました。2月になっても解決しません。チームは毎日、暗い雰囲気ですがチームリーダーの私は皆に「我々の失策でも何でもない、国同士の大きな問題に挟まれているんだ。これを解決できたなら凄いことだ」と檄を飛ばして過ごしていました。しかし3月に入っても解決策が見い出せません。いよいよ開催館や主催メディアに開催できなくなるかもしれないと苦痛の報告行脚をします。

開催まであと1か月。3月上旬に外務省広報文化交流部がある策を見つけ出しました。2004年に採択された「国連の文化財保護に関する条約」にヒントを見つけました。日本政府は2007年にこの条約に署名していました。文化財の差押排除や安全保障をうたった条約です。

外務省からロシア連邦文化映画庁へ、この条約にもとづいて日本政府は安全を保障するという手紙が3月12日付けで発信されました。これで解決したのでした。関係者一同が歓喜に沸いたのです。開幕まで1か月、やっとロシア国内での手続きが始まります。間に合うのか!心臓に悪い日は続きます。モスクワからフランクフルトまで作品を陸送し、JALの成田行きに乗せます。貨物室の空きがあるのかどうか日々チェックです。神様は私たちに微笑んでくれました。4月12日、予定通り静岡県立美術館で開幕したのです。凄い経験をしました。以後、国家保証の法律ができるまで、国連の条約署名という手が日本での展覧会で使われることになったという意義のある仕事でした。ちなみに日本で法律が作られた(2011年度施行)のは台湾からの「台北 國立故宮博物院」展(2014年)を日本で開催するというこれまで不可能と言われたことを可能にするためでもありました(中国政府との関係から)。

無事に作品が飛び立つ

さて、話を戻します。126件-リヒテンシュタイン側から送られてくる英語のリストを翻訳し、画像データを付けていく作業・・チームの2人が、期限に間に合わせるため連日連夜作業をしてくれました。何と!文化庁に送ったデータが何故だか消えてしまうというアクシデントもあり、やり直しを強いられ2人は泣きました。開催の1か月前にはリヒテンシュタインに公的証明書を送らなければなりません。ぎりぎりセーフ。ここでも神様が見守ってくれたのです。

「強制執行等することができない海外の美術品等の指定について」今も文化庁のホームページに苦労のあとが残されています。(bunka.go.jp)

多くの関係者の皆さんとともに展覧会が完成に近づきつつあります。ファドゥーツ城からの出品作品がウィーンへ陸送され、ウィーンにある作品とともに美術品輸送専門業者KUNSTTRANSの手でクレート(箱)にパッキングされ、羽田行の直行便2便に分け搭載(リスクを避けるため2便に分けます)。輸送協力をいただいたANA機がウィーンを飛び立ちました。(つづく

筆者:のぎめてんもく

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